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Episode 1710 : I would talk about it when I went to heaven 2

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冥途の土産話 2
 
記憶の新しいうちに、書き留めておこうと思う。
 
20代前半から40代初頭まで、より具体的にいうと1989年から2007年、レコード会社の依頼で洋楽の歌詞対訳という副業をしていた。18年で200枚強手がけたと思う。何故過去形かというと、対訳の依頼が来なくなったからだ。洋楽をあまり聴かない、または洋楽のパッケージ(CD)を買わない方の為に説明すると、国内で発売される洋楽CDは、国内でプレスしたCDに、国内で印刷したインナースリーブを封入し、邦題をつけて販売する。その際、原曲の歌詞があれば、日本語の対訳をつける事が多かった。これも何故過去形かというと、どんな企業も経費削減し生き残りをかけているが、洋楽をリリースするレコード会社が経費として削減するのは、国内盤に付属する日本語での翻訳情報で、日本語の歌詞は真っ先に省略された。国内でプレスせず輸入盤にそのまま帯をつけて販売する会社も増えてきたし、インターネットの普及で元詞を検索したり自動翻訳も容易になったので、相対的に需要も減ってきた。断固として申し上げるが、詞の世界というものは、今後も(少なくとも今しばらくは)AIで対応しきれるものではないのだが、需要がなければ出番もない。そういうわけで、90年代半ばから依頼数が膨大になり、姉とチームを組んで取り組むまでになった歌詞対訳業だったが、分け合う量でもなくなった10年前、作業を姉に一任し廃業した。
 
そもそも、留学経験もなければ帰国子女でもない、英語は義務教育と国内大学で受ける、実践的とは言い難い語学教育しか受けていない私は、今この瞬間においても語学に関しては生来勘所の鈍さというか、劣等感に苛まされながら生きているのだが「英文科出てるんなら、歌詞の対訳位できるでしょ、やってみない?」と気軽に声を掛けられ「できるかも」と思った若さが間違いだったにせよ、今でもネットで自分の名前を検索するとほぼ100%「中学レベル以下、最低の翻訳家」「直訳しかできないGoogle翻訳以下のバカ対訳家」としか出てこない。ほぼ、というのは、たったひとつのバンドのファンにだけは、どういうわけか神格化されており、そのバンドの国内評価とも密接に繋がっているのだ。信じられない位。
 
私は「リバプールの残虐王」という異名を持つそのハードコアバンドの歌詞を、日本デビューから4作目のリリースまで継続して対訳したのだが、通常依頼するレコード会社は「こういう内容のアルバムですが、できますか?」という事は基本的に事前確認しないが、難解な医学用語をこれでもかという程盛り込んだ上、腐敗した人体を切り刻むような、到底歌とは言えない歌詞で、さすがの担当ディレクターも「経費で医学用語辞典を買ってください」と提案してくれた。購入した一番安い英和医学用語辞典は当時7,000円以上したが、医療従事者向けなので、辞書を引いた日本語自体が難しすぎて意味不明、その上活字が潰れているほど内容が古いらしく、日進月歩の医療用語を、こんな古い版の辞書で対応できるのか不安になったが、歌詞に出てくる当の医療用語も綴りが間違っていて更に混乱した。仕事なので途中放棄も出来ず、とにかく最後の一行まで〆切遵守で根気よく訳した。そのバンドは、日本でも熱狂的なファンを掴み、国内盤も結構な売れ行きだったそうだが、4作目で音が一気に華やかなヘビメタ系に変わり、残忍な歌詞はなりをひそめた。アメリカから世界ブレイクを目指そうとしたのがありありとわかったが失速してしまい、5作目で解散した。対訳した彼らの国内盤は、すべて廃盤になった。
 
4年前のある日、大学の先輩が「君が対訳したバンドと歌詞について載ってるよ」と、とある音楽雑誌を見せてくれた。見ると、デビュー当時からの大ファンが、やがて自らも表現活動を行う一人として成功を掴み、担当ディレクターと共に自分の偏愛するバンドただ一つを語る、というファン冥利に尽きる連載をしていて、第2回にあたるその号では歌詞対訳について触れていた。対訳したバンドも再結成し、来日までしていた。バンドへの愛が発展して対訳まで褒めてくれているにせよ、いったいこの賞賛ぶりはなんなのだ…そういえば、まだ現役だった頃、ディレクターから「対訳についてファンレターが来るんだよ、バンドにじゃないんだ」と聞いたことがあったが、全く話半分以下に聞き流していたので、あれは本当だったんだと、20年以上経って判った。
 
ちょうど2年前、前出の音楽雑誌がライブイベントを開催した。たまたま観たいバンドと、座談会の連載をしているアーティストが同時に出演するので、主人と前出の先輩と3人でイベントに出かけた。幕間、ロビーに出ると遠くから「幸子さ~ん、幸子さぁ~ん…」という声がしたので、振り向くとそのアーティストが物販ブースにいた。どうして私の顔が判ったのかわからないが、ステージメイクのまま「お会いできて光栄です!」「一緒に写真撮ってください!」と、緊張と興奮でカチカチになっている。あまりに緊張しているので、私の方から彼の肩を組んで写真に納まった。連絡先を交わし「今度、座談会にゲスト出演していただけませんか」断る理由もないので快諾した。それから2年後の今月、本当に音楽雑誌から参加依頼の連絡が来た。
 
座談会では、バンドやその歌詞対訳についてだけでなく、歌詞対訳家として自分が何をし、どういう姿勢で臨んできたか、また対訳を通しいかに多くの方々に育てていただいたか、自分自身忘れていた過去をひとつひとつ振り返りながら話していった。非常に和やかな、笑いの絶えない2時間の座談会はあっという間に終わった。座談会の翌日、対談相手のアーティスト及び雑誌編集長より「これまで何度も座談会を行ってきたが、こんなに楽しい会はなかった」と改めて御礼を頂戴し、形の上は特定のバンドについて語る座談会ではあったが、自分の対訳でこんなに喜んでくれた人がいたという事を知り、アルバム1枚1枚と一騎打ちをするように、能力上決して楽な作業ではない対訳を続けてきた若き自分への総括として、一つの大きなご褒美をいただいたような、そんな温かい気持ちがこみ上げてきた。
 
サージカル・スティール